女性ではない。

僕は女性を憎むようになっていた。それを裏打ちしているのが、自分は被害者だという意識である。女なんてものはセックスという商品価値をちらつかせて、かけひきで優勢に立ち、無意味に男を翻弄する―そんなふうにしか考えられなくなっていた。オレがそんな仕打ちを受ける筋合いはない。そう怒り、女性のことを憎んだ。
オレのことを不当に翻弄する奴らから問答無用で尊厳を剥ぎとってやりたい―そんな衝動をかかえた僕の中で、女性をモノかゴミとしてしか扱わないスプラッタ映画は、ある種の安らぎとして機能したのだ。真面目な愛好家たちには申し訳ないが、僕はそういう、よこしまな目的でスプラッタ映画に淫していた。
やがて、スプラッタにとどまらず、ハードコア・ポルノ映画にも淫するようになった。
(中略)
ポルノ映画は、一部の例外を除き、ストーリーなどあってなきが如きで、ただひたすら性器が結合する。何の脈絡もなく殺戮が繰り返されるスプラッタと、それは同じだ。女性が極限にまで物体化されているという意味において。
そこは女性の尊厳が奪われている世界だ。彼女たちは、ただ殺されるためだけに存在する、ただインサートされるためだけに存在する。モノかゴミとして。

他人に傷つけられることはあっても、他人を傷つけることは決してない―
そう思い込んだ時点で、既に僕は、傷つける側に回っていた、とも言える。

by 西澤保彦さん
















自己欺瞞を排すべき時かもしれん。
いつまでも捉われていても有害でしかない。